森友学園の幼稚園で教育勅語の暗唱をさせていることが問題となっていますが、これについて
「教育勅語の何がいけないの?」
「教育勅語っていいこと書いてあるじゃん」
「教育勅語の暗唱いいじゃん」
「教育勅語で道徳心が身につく」
こういうことを言う人たちが結構います。
もちろん、個人として教育勅語を暗唱することは勝手ですが、一条校(学校教育法第1条で定められた学校)である幼稚園で教育勅語を教えることは完全に間違いです。そして、教育勅語を称えている人には、現代語訳しか見ていない人が多いというのが私の印象です。
今回は教育勅語のどこが問題とされているのか見てみたいと思います。

「教育勅語の何がいけないの?」
「教育勅語っていいこと書いてあるじゃん」
「教育勅語の暗唱いいじゃん」
「教育勅語で道徳心が身につく」
こういうことを言う人たちが結構います。
もちろん、個人として教育勅語を暗唱することは勝手ですが、一条校(学校教育法第1条で定められた学校)である幼稚園で教育勅語を教えることは完全に間違いです。そして、教育勅語を称えている人には、現代語訳しか見ていない人が多いというのが私の印象です。
今回は教育勅語のどこが問題とされているのか見てみたいと思います。

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これが教育勅語の原文です。
これだけ読んでも、現代の人には全く意味が分からないので、ほとんどの人は、現代語訳されたものを読んでいることと思います。
しかし、どういうわけか、多くの現代語訳には問題があります。肝心の点が訳されていないのです。
例えば、これは明治神宮のHPに載っている教育勅語です。
これだけ読むと、立派なことが書いてあると思うのは当然だともいえましょう。
しかし、この現代語訳は、教育勅語の問題点を意図的に隠して訳されているのです。明治神宮HPには「国民道徳協会訳文」と書いてありますが、「国民道徳協会」というのは佐々木盛雄という元自民党員が一人でやっていたものにすぎず、何の権威もない存在です。そしてこの「国民道徳協会訳文」は、はっきり言って滅茶苦茶に卑怯です。詐欺と言っていいレベルに改竄されています。どこがどうおかしいのか、見ていきたいと思います。
まず、明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」(以下「現代語訳」)は、出だしがこうなっています。
>>私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
しかし、原文はこうなのです。
>>朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
現代語訳では「私は」で始まっていますが、原文は「朕」です。つまり、教育勅語の主語は天皇であり、国民に与えたという形をとっています。まず、そこをしっかり認識しましょう。
つぎに、現代語訳では「私たちの祖先が…日本の国をおはじめになった」と書いてありますが、これは明確に意図的な誤訳です。
原文は、「我が皇祖皇宗国を肇(はじ)むること…」となっています。「皇祖皇宗」とは「天照大神に始まるとされる、天皇歴代の祖先」という意味です(コトバンク参照)。現代語訳だと「私たちの祖先が…」なんて書き、あたかも「国民のみんなで頑張って国を作ってきた」と勘違いしそうですが、実際には「日本は皇室が作った」ということが書いてあるのです。原文は「我が皇祖皇宗」なのに、現代語訳は「私『たち』の祖先」となっていて、明らかに騙す意図がある、卑怯な意図的誤訳です。
後半でも、原文には
>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓
と書いてあるのに、現代語訳は
>>このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として
となっており、「我カ皇祖皇宗ノ遺訓」(皇室代々の教え)を、我々国民の先祖が守ってきた教訓であるかのように改竄しています。教育勅語においては、日本を作ったのも、「国民の歩むべき道」を決めたのも、「皇祖皇宗」であるとしているのですが、そこを現代語訳は意図的に改竄し、隠蔽しているのです。
さらに、
>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ
>>以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
という箇所を、「国民道徳協会訳文」は
>>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、
>>国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
と訳してあります。
はっきり言って、この訳は卑怯にもほどがあります。これだと現代のわれわれの道徳観とも特別反することがない普通の内容に聞こえますが、原文は「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」です。「天壌無窮」とは、「天と地とともに永遠に極まりなく続くさま」を意味します(新明解四字熟語辞典)。「皇運」とは言うまでもなく「皇室の運命」(大辞林)。「扶翼」とは「助け守る」という意味です(大辞林)。
つまり、ここの正しい現代語訳は、
「一旦危機があれば、勇気をもって公(おおやけ)に奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けて守るようにしなさい」
となるのです。
明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、「国と平和と安全に奉仕」という、現代人の感覚としても問題がないことが書いてあるかのように騙していますが、実際には「皇室を守れ」と書いてあるのです。
「『国』に危機が迫ったら『皇運』(皇室の運命)を守れ」となってるわけですし、「皇運」を現代語訳が「国」と訳していることからも、教育勅語は皇室と日本とを同一視していることがわかります。教育勅語は明治憲法史観に基づいていることがはっきりとわかるのですが、ここも「国民道徳協会」という謎組織に改竄された現代語訳を読んだだけではわからないところです。
現代語訳のもう一つ卑怯な点は、「臣民」という言葉を隠しているところです。
「臣」という字が「家臣」「臣下」「忠臣」という言葉に用いられることからもわかる通り、「臣」とは「主君に仕える者。統治をうける者。けらい」という意味です。そして「臣民」とは「君主国において、君主の支配の対象となる人々」(デジタル大辞泉)であり、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の明治憲法の考え方です。現代の日本国憲法の国民主権とは相いれない言葉なのです。
ところが、原文と現代語訳を比べると、このようになっています。
「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ」
→「国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて」
「爾臣民父母ニ孝ニ」
→「 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし」
「朕󠄁爾臣民ト俱ニ」
→「私もまた国民の皆さんと共に」
「爾(なんじ)」とは「多く、対等またはそれ以下の人に用いられる」二人称です(デジタル大辞泉)。「我カ臣民」「爾臣民」という表現からもわかる通り、教育勅語は天皇が家来である国民に命令する形をとっているのですが、現代語訳は「国民の皆さんは」などと訳して、実に卑怯なものです。
さらに、教育勅語の最大の問題点が、以下の個所です。
>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
>>是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、卑怯にも「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります」などと、ごく当たり前のことが書いてあるかのように偽装して訳していますが、実際には、
「皇運ヲ扶翼」(天皇家の運命を助けること)は「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として当然の努めであり、それは「皇祖皇宗ノ遺訓」(代々の天皇家が残してきた教え)であり、「子孫臣民」が順守しなくてはならないものだ
と言っているのです。
教育勅語には、いわゆる「12の徳目」が書かれています。「親孝行しろ」とか「友達と仲良くしろ」とか「勉学に励め」とか、すごく当たり前のいいことが書いてあります。ここを読んで、「教育勅語は素晴らしい」と言う人が少なくありませんが、それらの徳目はすべて「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として守るべき当然の務めだと書いてあるのです。
教育勅語の目的は、天皇の「忠良な臣民」を作ることです。いいことが書いてあるように見える12の徳目も、その目的は天皇の「忠良な臣民」になることです。教育勅語がいかに現代の国民主権の考え方と相いれないものか、お分かりいただけるのではないでしょうか。「教育勅語が民主的でない」と言われるのは、この明治憲法の天皇主権に基づき、国民を天皇の臣下(臣民)とみなす考え方に貫かれているからなのです。
端的に言いますと、「朕カ忠良ノ臣民」というこの7文字だけで、教育勅語は現在の日本国で使う文言としては余裕でアウトです。
教育勅語が、国民主権の日本国憲法と全く相いれない、明治憲法の天皇主権に基づいて作られたものであるということはお分かりいただけたと思います。
しかし、それでも「間違っているのは教育勅語ではなく日本国憲法の方だ!」「日本は天皇を中心とした神の国で、国民は天皇の赤子(せきし)なのだから、教育勅語を教えてもいいじゃないか!」と言う人もいるでしょう。実際、森友学園の籠池理事長も、園児に向かって「みんな天皇の子供」だと言っていました。
たしかに、個人の思想信条は自由であり、「天皇主権こそが正しいのだ」と考えること自体は自由です。ところが、幼稚園というのは一条校(学校教育法第1条で定められた学校)なのです。一条校はすべて、教育基本法を守る義務を負っています。
教育基本法は第一次安倍内閣の時に「愛国心」が入れられるなど改訂されましたが、その改訂教育基本法にも、前文および第一条に、以下のように書かれています。
ご覧のとおり、教育基本法に、日本の教育は「日本国憲法の精神にのっとり」、「民主的な」国家の形成者を作ることを目的としているとはっきりと書いてあるのです。
皇室と日本を同一視し、国民を天皇の「忠良の臣民」とみなし、何かあったら「皇室の運命を助ける」ことを国民の義務として教える教育勅語が、国民主権を柱とした日本国憲法の精神にのっとっていないことは明白です。
だから、私塾で教育勅語を教えるのは勝手なのですが、教育基本法の支配下に置かれた学校では、教育勅語の暗唱なんぞさせてはいけないのです。それは、教育基本法に反しているからなのです。
1948年には衆参両院で、教育勅語の排除および失効が確認されています。その時の衆議院決議はこちらです。
教育勅語を「良いことも書いている」などと言う稲田朋美みたいな人がいますが、教育勅語はその根本理念が国民主権や基本的人権の尊重に反しているのですから、「良いことも書いてあるよ」なんて言い訳は成り立ちません。
「日本国憲法の精神にのっとり」「民主的な国家及び社会の形成者」を育てるうえで、根本理念が「国民主権・基本的人権の尊重」という日本国憲法の精神にのっとっていない非民主的な代物である教育勅語を用いることなど許されないことなのです。
良いことが書いてあるものを読ませたいのなら、根本理念が国民主権や基本的人権の尊重に反している教育勅語なんぞ使わず、『スラムダンク』でも読ませればいいんです。友情の大切さとか努力の大切さとか、子供が学ぶべきものがたくさん描かれてますから。
これで、これまで教育勅語を読んだことがない人や、「国民道徳協会訳文」のような改竄された偽の現代語訳しか読んだことがなかった人にも、教育勅語の何が問題とされているのか、お分かりいただけたのではないでしょうか。個人として、天皇主権を主張しようが、日本国憲法を否定しようが勝手ですが、教育勅語を学校で教えたいのならば、教育基本法から「日本国憲法の精神にのっとり」「民主的な」国家の形成者を作ることを目指すという箇所を削除するか、日本国憲法を天皇主権に書き換えるかが必要になるのです。教育基本法に反するから、学校で教えてはならないのです。
教育勅語の問題点がわからない人がいたら、ぜひこのページを見せてあげてほしいと思います。
あと、明治政府の公式の英訳から教育勅語を読み解くという試みもやってみましたので、ぜひそちらもご参照ください。そこで教育勅語の現代語訳を作りましたが、私個人の主観的解釈を一切入れることなく、明治政府の意図を相当忠実に現代語訳したと思います。
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・現代語訳から隠された問題点
これが教育勅語の原文です。
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
これだけ読んでも、現代の人には全く意味が分からないので、ほとんどの人は、現代語訳されたものを読んでいることと思います。
しかし、どういうわけか、多くの現代語訳には問題があります。肝心の点が訳されていないのです。
例えば、これは明治神宮のHPに載っている教育勅語です。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(明治神宮HP)
これだけ読むと、立派なことが書いてあると思うのは当然だともいえましょう。
しかし、この現代語訳は、教育勅語の問題点を意図的に隠して訳されているのです。明治神宮HPには「国民道徳協会訳文」と書いてありますが、「国民道徳協会」というのは佐々木盛雄という元自民党員が一人でやっていたものにすぎず、何の権威もない存在です。そしてこの「国民道徳協会訳文」は、はっきり言って滅茶苦茶に卑怯です。詐欺と言っていいレベルに改竄されています。どこがどうおかしいのか、見ていきたいと思います。
・天皇から下賜された教育勅語という点を隠す現代語訳
まず、明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」(以下「現代語訳」)は、出だしがこうなっています。
>>私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
しかし、原文はこうなのです。
>>朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
現代語訳では「私は」で始まっていますが、原文は「朕」です。つまり、教育勅語の主語は天皇であり、国民に与えたという形をとっています。まず、そこをしっかり認識しましょう。
つぎに、現代語訳では「私たちの祖先が…日本の国をおはじめになった」と書いてありますが、これは明確に意図的な誤訳です。
原文は、「我が皇祖皇宗国を肇(はじ)むること…」となっています。「皇祖皇宗」とは「天照大神に始まるとされる、天皇歴代の祖先」という意味です(コトバンク参照)。現代語訳だと「私たちの祖先が…」なんて書き、あたかも「国民のみんなで頑張って国を作ってきた」と勘違いしそうですが、実際には「日本は皇室が作った」ということが書いてあるのです。原文は「我が皇祖皇宗」なのに、現代語訳は「私『たち』の祖先」となっていて、明らかに騙す意図がある、卑怯な意図的誤訳です。
後半でも、原文には
>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓
と書いてあるのに、現代語訳は
>>このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として
となっており、「我カ皇祖皇宗ノ遺訓」(皇室代々の教え)を、我々国民の先祖が守ってきた教訓であるかのように改竄しています。教育勅語においては、日本を作ったのも、「国民の歩むべき道」を決めたのも、「皇祖皇宗」であるとしているのですが、そこを現代語訳は意図的に改竄し、隠蔽しているのです。
・「皇運」を「国の平和と安全」と訳す卑怯な現代語訳
さらに、
>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ
>>以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
という箇所を、「国民道徳協会訳文」は
>>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、
>>国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
と訳してあります。
はっきり言って、この訳は卑怯にもほどがあります。これだと現代のわれわれの道徳観とも特別反することがない普通の内容に聞こえますが、原文は「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」です。「天壌無窮」とは、「天と地とともに永遠に極まりなく続くさま」を意味します(新明解四字熟語辞典)。「皇運」とは言うまでもなく「皇室の運命」(大辞林)。「扶翼」とは「助け守る」という意味です(大辞林)。
つまり、ここの正しい現代語訳は、
「一旦危機があれば、勇気をもって公(おおやけ)に奉仕し、永遠に続く皇室の運命を助けて守るようにしなさい」
となるのです。
明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、「国と平和と安全に奉仕」という、現代人の感覚としても問題がないことが書いてあるかのように騙していますが、実際には「皇室を守れ」と書いてあるのです。
「『国』に危機が迫ったら『皇運』(皇室の運命)を守れ」となってるわけですし、「皇運」を現代語訳が「国」と訳していることからも、教育勅語は皇室と日本とを同一視していることがわかります。教育勅語は明治憲法史観に基づいていることがはっきりとわかるのですが、ここも「国民道徳協会」という謎組織に改竄された現代語訳を読んだだけではわからないところです。
・「臣民」を隠す現代語訳
現代語訳のもう一つ卑怯な点は、「臣民」という言葉を隠しているところです。
「臣」という字が「家臣」「臣下」「忠臣」という言葉に用いられることからもわかる通り、「臣」とは「主君に仕える者。統治をうける者。けらい」という意味です。そして「臣民」とは「君主国において、君主の支配の対象となる人々」(デジタル大辞泉)であり、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の明治憲法の考え方です。現代の日本国憲法の国民主権とは相いれない言葉なのです。
ところが、原文と現代語訳を比べると、このようになっています。
「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ」
→「国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて」
「爾臣民父母ニ孝ニ」
→「 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし」
「朕󠄁爾臣民ト俱ニ」
→「私もまた国民の皆さんと共に」
「爾(なんじ)」とは「多く、対等またはそれ以下の人に用いられる」二人称です(デジタル大辞泉)。「我カ臣民」「爾臣民」という表現からもわかる通り、教育勅語は天皇が家来である国民に命令する形をとっているのですが、現代語訳は「国民の皆さんは」などと訳して、実に卑怯なものです。
さらに、教育勅語の最大の問題点が、以下の個所です。
>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
>>是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、卑怯にも「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります」などと、ごく当たり前のことが書いてあるかのように偽装して訳していますが、実際には、
「皇運ヲ扶翼」(天皇家の運命を助けること)は「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として当然の努めであり、それは「皇祖皇宗ノ遺訓」(代々の天皇家が残してきた教え)であり、「子孫臣民」が順守しなくてはならないものだ
と言っているのです。
教育勅語には、いわゆる「12の徳目」が書かれています。「親孝行しろ」とか「友達と仲良くしろ」とか「勉学に励め」とか、すごく当たり前のいいことが書いてあります。ここを読んで、「教育勅語は素晴らしい」と言う人が少なくありませんが、それらの徳目はすべて「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として守るべき当然の務めだと書いてあるのです。
教育勅語の目的は、天皇の「忠良な臣民」を作ることです。いいことが書いてあるように見える12の徳目も、その目的は天皇の「忠良な臣民」になることです。教育勅語がいかに現代の国民主権の考え方と相いれないものか、お分かりいただけるのではないでしょうか。「教育勅語が民主的でない」と言われるのは、この明治憲法の天皇主権に基づき、国民を天皇の臣下(臣民)とみなす考え方に貫かれているからなのです。
端的に言いますと、「朕カ忠良ノ臣民」というこの7文字だけで、教育勅語は現在の日本国で使う文言としては余裕でアウトです。
・「根本精神」が「基本的人権を損なう」として、国会で排除、失効の決議がなされた教育勅語
教育勅語が、国民主権の日本国憲法と全く相いれない、明治憲法の天皇主権に基づいて作られたものであるということはお分かりいただけたと思います。
しかし、それでも「間違っているのは教育勅語ではなく日本国憲法の方だ!」「日本は天皇を中心とした神の国で、国民は天皇の赤子(せきし)なのだから、教育勅語を教えてもいいじゃないか!」と言う人もいるでしょう。実際、森友学園の籠池理事長も、園児に向かって「みんな天皇の子供」だと言っていました。
たしかに、個人の思想信条は自由であり、「天皇主権こそが正しいのだ」と考えること自体は自由です。ところが、幼稚園というのは一条校(学校教育法第1条で定められた学校)なのです。一条校はすべて、教育基本法を守る義務を負っています。
教育基本法は第一次安倍内閣の時に「愛国心」が入れられるなど改訂されましたが、その改訂教育基本法にも、前文および第一条に、以下のように書かれています。
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
ご覧のとおり、教育基本法に、日本の教育は「日本国憲法の精神にのっとり」、「民主的な」国家の形成者を作ることを目的としているとはっきりと書いてあるのです。
皇室と日本を同一視し、国民を天皇の「忠良の臣民」とみなし、何かあったら「皇室の運命を助ける」ことを国民の義務として教える教育勅語が、国民主権を柱とした日本国憲法の精神にのっとっていないことは明白です。
だから、私塾で教育勅語を教えるのは勝手なのですが、教育基本法の支配下に置かれた学校では、教育勅語の暗唱なんぞさせてはいけないのです。それは、教育基本法に反しているからなのです。
1948年には衆参両院で、教育勅語の排除および失効が確認されています。その時の衆議院決議はこちらです。
民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは敎育基本法に則り、敎育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている敎育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の敎育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。ここにある通り、教育勅語が「今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続している」というのは「誤解」ですし、教育勅語はその根本的理念が主権在君、神話的国体観に基づいていて、明らかに基本的人権を損なっているとされているのです。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。(1948年6月19日衆議院決議)
教育勅語を「良いことも書いている」などと言う稲田朋美みたいな人がいますが、教育勅語はその根本理念が国民主権や基本的人権の尊重に反しているのですから、「良いことも書いてあるよ」なんて言い訳は成り立ちません。
「日本国憲法の精神にのっとり」「民主的な国家及び社会の形成者」を育てるうえで、根本理念が「国民主権・基本的人権の尊重」という日本国憲法の精神にのっとっていない非民主的な代物である教育勅語を用いることなど許されないことなのです。
良いことが書いてあるものを読ませたいのなら、根本理念が国民主権や基本的人権の尊重に反している教育勅語なんぞ使わず、『スラムダンク』でも読ませればいいんです。友情の大切さとか努力の大切さとか、子供が学ぶべきものがたくさん描かれてますから。
これで、これまで教育勅語を読んだことがない人や、「国民道徳協会訳文」のような改竄された偽の現代語訳しか読んだことがなかった人にも、教育勅語の何が問題とされているのか、お分かりいただけたのではないでしょうか。個人として、天皇主権を主張しようが、日本国憲法を否定しようが勝手ですが、教育勅語を学校で教えたいのならば、教育基本法から「日本国憲法の精神にのっとり」「民主的な」国家の形成者を作ることを目指すという箇所を削除するか、日本国憲法を天皇主権に書き換えるかが必要になるのです。教育基本法に反するから、学校で教えてはならないのです。
教育勅語の問題点がわからない人がいたら、ぜひこのページを見せてあげてほしいと思います。
あと、明治政府の公式の英訳から教育勅語を読み解くという試みもやってみましたので、ぜひそちらもご参照ください。そこで教育勅語の現代語訳を作りましたが、私個人の主観的解釈を一切入れることなく、明治政府の意図を相当忠実に現代語訳したと思います。
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コメント
流石は大喪の礼も読めない「普通」の日本人さまだ
明治神宮は現代語訳一つマトモできないという批判記事という事さえ理解出来てない
>「日本人にとって何が大切なことなのかを示された手本」
明治神宮HPにはそう書いてありますが、そういうよりは
「勅語が出された当時の旧帝国臣民にとって何が大切なことなのかが示された、当時ならほぼ抵抗なく受け入れられた手本」
と言うべきかと思います。
そして、当時の世界情勢のもとで日本を【近代国家】にするためには、明治政府は【統一された価値観を持つ「国民」】を新たに造り出す必要性を認識しており、教育勅語はそのことに大きく寄与するという歴史的意義があったことだけは理解できます。
後に軍国主義に繋がるこの勅語が素晴らしいものだとは全く思いませんが、
一方で当時の【近代国家】とはまさにそういう性質を持つものであり、欧米列強であっても国民に対しては国家への強い忠誠心を要求していたことは事実です。一方江戸時代までの日本の民衆は「いかさず殺さず」の対象でしかなく、一般的な意識としては国家の担い手ではありませんでした。日本が近代国家に生まれ変わることは当時の政府の選択であり、功罪の両面がありますが、近代化を遂げない選択の方が幸福だったかといわれれば、それも違うと言わざるを得ないでしょう。
しかし、国家のために生命を投げ出せというのは、個人の人権や尊厳を重んじる日本国憲法下の日本では、もう全く通用しない考え方です。
また、12の徳目というものも、現代では他人に強要できるものではありません。自主的にこれらの徳目を実践すれば、それはそれで立派なことかもしれませんが、
現代なら、例えば「親孝行」を説く前に「子供を虐待するな」も入れるべきでしょうし、友人に関しては「友達は慎重に選べ」も加えておくべきだと思います。
↑もうこれがアカン
非常事態に陥らないようにするのが国の役目だし、そうなった際に国民に義務を強いるのは独裁国家と変わらん
私立の宗教系の教育施設じゃ仏教やキリスト教の教義に基づいた世界観を子供達に教えてるとこなんていくらでもあるんだし「国家神道だけはダメ!」ってワケにもいかんでしょ。
今後はイスラム教系なんかの教育機関も増えていくだろうし、良くも悪くも価値観の多様性として許容していくしかないんじゃないのかな。
逆に「この世界観はダメ」って削っていってしまうと、それこそ最後の最後に残るのは国家にとって都合の良い世界観だけだろうしね。
我々の内面の自由を担保するためにも、「アレな価値観」を許容して共存していくべきだと思う。
>私立の宗教系の教育施設じゃ仏教やキリスト教の教義に基づいた世界観を子供達に教えてるとこなんていくらでもあるんだし「国家神道だけはダメ!」ってワケにもいかんでしょ。
なぜそこでいきなり国家神道が出てくるんですか?
国家神道と教育勅語って何か関係有ります?(そもそも神道に教義は無い)
あと仏教やキリスト教と並べるなら神道(正確には神道も宗教とは言えないが)であって、
国家神道と並べるなら「創価学会」とか「法の華三法行」とかでは?
>我々の内面の自由を担保するためにも、「アレな価値観」を許容して共存していくべきだと思う。
判断力の乏しい子供に対する宗教教育はむしろ内面の自由を阻害してる面の方が強いのですが。。。
だからこそ国公立学校では宗教教育や宗教活動が禁じられています。