<ざっくり言うと>
- イデオロギーを学問より上位に置くとろくなことにはならない。
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「愛国心」は歪むと、「敵」を排除しようという排外的な思想と結びがちです。これなどまさにその例と言えるでしょう。

(『NEWSポスト7』4月6日)
百田氏によれば、「中国が本気で日本を奪りに来ていることは誰の目にも明らか」なのだそうです。尖閣ならともかく、「日本」を本気で奪りに来ているなんていうのは、「誰の目にも明らか」ではないと思うんですけど、彼の目には明らかなんでしょうけど。
ですが、中国がそんなにも脅威なのに、日本が適切な対抗策をとれないのは、『史記』とか『三国志』とか「中国四千年」とかに見られるように、「中国は歴史ある偉大な国」「文明的な国」という誤解に基づく「中国への漠然とした憧れ」があるからだそうです。
百田は「敵に塩を送るというメンタリティは中国人には通用しない」とか残酷刑とか科挙とか宦官とかを挙げ、「中国文化は根本的に日本文化に合わない」と言います。それ言ったら、欧米の文化だって根本的に日本文化と合わないことになっちゃうと思いますけどね。実際についこの間アメリカとうまく合わなくて全面戦争したのに。
百田の中国論の妥当性はともかくとして、百田は中国は脅威なのだから、中国に対する漠然とした憧れを捨てろと言います。そして、なんとこんなことを言いだしたのです。
呆れました。太平洋戦争中に英語を敵性語だと言っていた時代と変わらない。それに、百田は作家のくせに、本当にどうして学校で漢文の授業があるのかわからないですかね?
百田自身が指摘している通り、日本では『史記』や『三国志』が昔から親しまれ、「江戸時代の儒学者たち」はもちろん、明治に入るまで四書五経というものは教養の基礎でした。特に論語は明治になっても尊重され続けてきました。日本人にとっての漢文は、ヨーロッパにおけるラテン語のように、日本の教養の基礎を形作ってきたのです。
現在の日本は漢文なしには決して成り立ちません。現在われわれは「教育」「科学」「技術」「哲学」「自由」「権利」「義務」「宗教」「進化」「経済」「人民」「民主」「共和国」「憲法」「立法」「司法」などの言葉を日常的に使いますが、これらは全て幕末から明治にかけて、西周、夏目漱石、福沢諭吉などが、漢字の教養を基に、西洋語の翻訳語として作り上げたものです。
「日本のルソー」と呼ばれる中江兆民に至っては、フランス語を訳すために漢文塾に入りなおして漢文の勉強をしています。当時の日本の語彙だけではルソーの書物に書かれた西洋概念を翻訳することができなかったので、新しい言葉を作り上げる必要があったのです。その時に彼らが活用したのが漢文知識であり、彼らの優れた翻訳により、日本が作り上げた様々な新漢語は、日本のみならず、朝鮮やベトナム、そして漢文の本国である中国でも使われるようになりました。
もしも日本人に漢文の素養がなかったのなら、日本の文明開化は著しく遅れていただろうことは想像に難くありません。翻訳語を作ることができず、「憲法には国民の権利と義務が書かれており、信教の自由は保証されている」という文は、「コンスティチューションにはピープルのライツとデューティーが書かれており、リリジョンのリバティーはセキュアされている」となっていた可能性が十二分にあるのです。アジアやアフリカではこれに近いことが起きている国が少なくなく、高等教育を現地語で行えない国がたくさんあると聞きます。フィリピンでは小学校でも数学と理科は英語で授業を受けるそうです。我々が日本語で高等教育を受けることができるのは、疑いようもなく、幕末~明治の教養人たちの漢文知識のおかげです。
漢文知識が失われた現在、日本人は翻訳能力を無くしました。constitution を「憲法」と訳すようなことができず、カタカナ語が氾濫。我が家の近くの自動車メンテナンスの広告なんて「快適なカーライフをトータルにサポートします」って書いてあります。
近年カタカナ語の氾濫に抗い、identity を「自己同一性」、informed consent を「納得診療」と訳すなどの努力が行われていますが、これも幕末明治のような漢文教養があれば、とっくの昔に適切な訳語が作られていたことでしょう。
それに、日本の漢文は、単なる中国語とは違います。日本人は中国語をそのまま読むのではなく、返り点を付けたり独自の読み方を開発したりして、日本文化として取り入れてきました。現在でも日常的に使う「~すべからず」とか「~がごとし」とかも、漢文書き下しの中で生まれてきた日本文化です。百田が教育勅語についてどう思っているか知りませんが、明治憲法だって教育勅語だって、漢文書き下し調の文章で書かれています。明治に二葉亭四迷だとか尾崎紅葉だとか夏目漱石だとか言文一致の文章を作り上げるまで、日本の文章、特に正式なものは基本的に漢文書き下しだったのです。漢文が読めなくなっているからこそ、教育勅語を原文で読むことができなくなり、原文を読まずにデタラメな「現代語訳」に頼って教育勅語論を書いてしまう産経新聞のような奴が出てくるわけですので、やはり漢文知識が必要だということがわかりますね。
百田は記事の中で「朝鮮半島はそれらすべて(中国文化)を無条件に受け入れましたが、日本は取捨選択をキチッとして独自の文明を育んだのです」と述べていますが、漢文はまさに中国文明を変化させて日本文化の中に入れ込んだ例だと言えます。百田は中国語を学ぶことと漢文を学ぶことの区別さえついていません。漢文はもう中国語というより日本語です。中国文法や中国音なんて全く気にせず、日本語に書き下して読むわけですからね。
(※ちなみに、百田はわざわざ朝鮮半島を引き合いに出して卑下し、朝鮮が「無条件に受け入れた」文化の中に纏足を入れていますが、朝鮮は纏足は受け入れていません。デマです。)
また、「英語と違って使う機会がない」というのなら、古文だって全く同じです。「いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに…」なんていつ使うんですかね? 漢文以上に使う機会がない気もしますが、百田は古文も廃止するべきだというんでしょうか?
↓これを思い出した

また、百田は、「漢文は趣味の世界だから、学校で学ばなくてもいい」と主張しています。これも完全に間違いです。
趣味の世界だから学ばなくていいのなら短歌も俳句も、国語の授業で学ぶ意味はないことになります。小説だって、趣味の世界と言えば趣味の世界です。
音楽だって美術だって書道だって、間違いなく趣味の世界です。百田はこれらも学校で学ばせる意味はないというのでしょうか。彼には「教養」という考え方がないのでしょうか?
「役に立つか役に立たないか」という尺度で教育を考えることは非常に危険です。「役に立つこと」ばかりを教えるようになれば、政府の考える「役に立つこと」だけが残り、自由な研究は失われます。例えば、ノーベル賞を受賞したニュートリノの研究が、何かの役に立つかというと、小柴教授は「役に立たない」と言い切っています(こちらの記事参照)。今では単位の名前にまでなっているヘルツは電波を「何の役にも立たない」と言っていたそうです(参照)。ところが今や電波が世界の全てを動かしていると言っても過言ではない状態ですので、何が役に立つのかなんてわかったもんじゃありません。
役に立つか立たないかという尺度で考えると、文系分野なんて大体役に立ちません。夏目漱石も、ロンドンに留学中、自分のやっている文学研究がいったい何の役に立つのかと悩み苦しんだそうです。しかし、音楽にしろ美術にしろ書道にしろ文学にしろ、そういう直接的に役に立たないものが、この国の文化を豊かにしているのです。
「漢文授業は趣味の世界で役に立たないから授業から外せ」という主張は、日本文化に対しても、日本の歴史に対しても、リスペクトの全く感じられない発言です。
このような主張がまかり通れば、この国は「役に立つこと」「金になること」ばかりがもてはやされる、モノトーンのつまらない国になってしまうことでしょう。大体独裁国ってそうなってますよね。
当然のことながら、ネット上の反応は批判的なものばかりで、現代中国の脅威を理由に漢文授業を廃止しろなんて意見に同意する者がほとんど見当たらないのがせめてもの救いというものです。
端的に言えば、百田は「中国が嫌いだ」というイデオロギーを、漢文という学問・教養の上に置けと言っているわけです。アメリカは敵だから英語を勉強するなとか、神の教えに反するから進化論は認めないとか、歴史上そんなことをやってろくなことになったことはありません。
中国やソ連では共産主義という政治イデオロギーが学問の上にきました。ルイセンコのマルクス・レーニン主義に基づいてメンデル遺伝学を否定するニセ化学がソ連を支配し、国家規模の被害を出しました。中国や朝鮮では科学よりも共産党や労働党の指導が優先され、作物は育たず、土砂崩れは起き、ソ連同様に国家規模の被害を出しました。イデオロギーが学問を上回れば、待っているのは停滞と破滅です。
世の中何が役に立つかわかりません。一見役に立たないような教養も、百田尚樹のような人間から身を守ることにきっと役立ちます。そのためにも、漢文を含め、学校でちゃんと勉強して教養を身につけましょう。
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「愛国心」は歪むと、「敵」を排除しようという排外的な思想と結びがちです。これなどまさにその例と言えるでしょう。

(『NEWSポスト7』4月6日)
百田氏によれば、「中国が本気で日本を奪りに来ていることは誰の目にも明らか」なのだそうです。尖閣ならともかく、「日本」を本気で奪りに来ているなんていうのは、「誰の目にも明らか」ではないと思うんですけど、彼の目には明らかなんでしょうけど。
ですが、中国がそんなにも脅威なのに、日本が適切な対抗策をとれないのは、『史記』とか『三国志』とか「中国四千年」とかに見られるように、「中国は歴史ある偉大な国」「文明的な国」という誤解に基づく「中国への漠然とした憧れ」があるからだそうです。
百田は「敵に塩を送るというメンタリティは中国人には通用しない」とか残酷刑とか科挙とか宦官とかを挙げ、「中国文化は根本的に日本文化に合わない」と言います。それ言ったら、欧米の文化だって根本的に日本文化と合わないことになっちゃうと思いますけどね。実際についこの間アメリカとうまく合わなくて全面戦争したのに。
百田の中国論の妥当性はともかくとして、百田は中国は脅威なのだから、中国に対する漠然とした憧れを捨てろと言います。そして、なんとこんなことを言いだしたのです。
そもそも、なぜ学校で「漢文」の授業があるのか。英語と違って使う機会なんてないし、あれは趣味の世界だと思うんです。
中国に対する漠然とした憧れを持つことはやめるべきだし、そんな勘違いを育む漢文の授業も廃止したらいいのです。
呆れました。太平洋戦争中に英語を敵性語だと言っていた時代と変わらない。それに、百田は作家のくせに、本当にどうして学校で漢文の授業があるのかわからないですかね?
・日本の教養を基礎作る漢文
百田自身が指摘している通り、日本では『史記』や『三国志』が昔から親しまれ、「江戸時代の儒学者たち」はもちろん、明治に入るまで四書五経というものは教養の基礎でした。特に論語は明治になっても尊重され続けてきました。日本人にとっての漢文は、ヨーロッパにおけるラテン語のように、日本の教養の基礎を形作ってきたのです。
現在の日本は漢文なしには決して成り立ちません。現在われわれは「教育」「科学」「技術」「哲学」「自由」「権利」「義務」「宗教」「進化」「経済」「人民」「民主」「共和国」「憲法」「立法」「司法」などの言葉を日常的に使いますが、これらは全て幕末から明治にかけて、西周、夏目漱石、福沢諭吉などが、漢字の教養を基に、西洋語の翻訳語として作り上げたものです。
「日本のルソー」と呼ばれる中江兆民に至っては、フランス語を訳すために漢文塾に入りなおして漢文の勉強をしています。当時の日本の語彙だけではルソーの書物に書かれた西洋概念を翻訳することができなかったので、新しい言葉を作り上げる必要があったのです。その時に彼らが活用したのが漢文知識であり、彼らの優れた翻訳により、日本が作り上げた様々な新漢語は、日本のみならず、朝鮮やベトナム、そして漢文の本国である中国でも使われるようになりました。
もしも日本人に漢文の素養がなかったのなら、日本の文明開化は著しく遅れていただろうことは想像に難くありません。翻訳語を作ることができず、「憲法には国民の権利と義務が書かれており、信教の自由は保証されている」という文は、「コンスティチューションにはピープルのライツとデューティーが書かれており、リリジョンのリバティーはセキュアされている」となっていた可能性が十二分にあるのです。アジアやアフリカではこれに近いことが起きている国が少なくなく、高等教育を現地語で行えない国がたくさんあると聞きます。フィリピンでは小学校でも数学と理科は英語で授業を受けるそうです。我々が日本語で高等教育を受けることができるのは、疑いようもなく、幕末~明治の教養人たちの漢文知識のおかげです。
漢文知識が失われた現在、日本人は翻訳能力を無くしました。constitution を「憲法」と訳すようなことができず、カタカナ語が氾濫。我が家の近くの自動車メンテナンスの広告なんて「快適なカーライフをトータルにサポートします」って書いてあります。
近年カタカナ語の氾濫に抗い、identity を「自己同一性」、informed consent を「納得診療」と訳すなどの努力が行われていますが、これも幕末明治のような漢文教養があれば、とっくの昔に適切な訳語が作られていたことでしょう。
それに、日本の漢文は、単なる中国語とは違います。日本人は中国語をそのまま読むのではなく、返り点を付けたり独自の読み方を開発したりして、日本文化として取り入れてきました。現在でも日常的に使う「~すべからず」とか「~がごとし」とかも、漢文書き下しの中で生まれてきた日本文化です。百田が教育勅語についてどう思っているか知りませんが、明治憲法だって教育勅語だって、漢文書き下し調の文章で書かれています。明治に二葉亭四迷だとか尾崎紅葉だとか夏目漱石だとか言文一致の文章を作り上げるまで、日本の文章、特に正式なものは基本的に漢文書き下しだったのです。漢文が読めなくなっているからこそ、教育勅語を原文で読むことができなくなり、原文を読まずにデタラメな「現代語訳」に頼って教育勅語論を書いてしまう産経新聞のような奴が出てくるわけですので、やはり漢文知識が必要だということがわかりますね。
百田は記事の中で「朝鮮半島はそれらすべて(中国文化)を無条件に受け入れましたが、日本は取捨選択をキチッとして独自の文明を育んだのです」と述べていますが、漢文はまさに中国文明を変化させて日本文化の中に入れ込んだ例だと言えます。百田は中国語を学ぶことと漢文を学ぶことの区別さえついていません。漢文はもう中国語というより日本語です。中国文法や中国音なんて全く気にせず、日本語に書き下して読むわけですからね。
(※ちなみに、百田はわざわざ朝鮮半島を引き合いに出して卑下し、朝鮮が「無条件に受け入れた」文化の中に纏足を入れていますが、朝鮮は纏足は受け入れていません。デマです。)
また、「英語と違って使う機会がない」というのなら、古文だって全く同じです。「いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに…」なんていつ使うんですかね? 漢文以上に使う機会がない気もしますが、百田は古文も廃止するべきだというんでしょうか?
↓これを思い出した

・趣味だから学校で学ばなくていいという間違い
また、百田は、「漢文は趣味の世界だから、学校で学ばなくてもいい」と主張しています。これも完全に間違いです。
趣味の世界だから学ばなくていいのなら短歌も俳句も、国語の授業で学ぶ意味はないことになります。小説だって、趣味の世界と言えば趣味の世界です。
音楽だって美術だって書道だって、間違いなく趣味の世界です。百田はこれらも学校で学ばせる意味はないというのでしょうか。彼には「教養」という考え方がないのでしょうか?
「役に立つか役に立たないか」という尺度で教育を考えることは非常に危険です。「役に立つこと」ばかりを教えるようになれば、政府の考える「役に立つこと」だけが残り、自由な研究は失われます。例えば、ノーベル賞を受賞したニュートリノの研究が、何かの役に立つかというと、小柴教授は「役に立たない」と言い切っています(こちらの記事参照)。今では単位の名前にまでなっているヘルツは電波を「何の役にも立たない」と言っていたそうです(参照)。ところが今や電波が世界の全てを動かしていると言っても過言ではない状態ですので、何が役に立つのかなんてわかったもんじゃありません。
役に立つか立たないかという尺度で考えると、文系分野なんて大体役に立ちません。夏目漱石も、ロンドンに留学中、自分のやっている文学研究がいったい何の役に立つのかと悩み苦しんだそうです。しかし、音楽にしろ美術にしろ書道にしろ文学にしろ、そういう直接的に役に立たないものが、この国の文化を豊かにしているのです。
「漢文授業は趣味の世界で役に立たないから授業から外せ」という主張は、日本文化に対しても、日本の歴史に対しても、リスペクトの全く感じられない発言です。
このような主張がまかり通れば、この国は「役に立つこと」「金になること」ばかりがもてはやされる、モノトーンのつまらない国になってしまうことでしょう。大体独裁国ってそうなってますよね。
・ネット上の反応
当然のことながら、ネット上の反応は批判的なものばかりで、現代中国の脅威を理由に漢文授業を廃止しろなんて意見に同意する者がほとんど見当たらないのがせめてもの救いというものです。
百田尚樹「そもそもなぜ学校で『漢文』の授業があるのか。英語と違って使う機会なんてないし、あれは趣味の世界だと思うんです」
— 盛田隆二📎🖇 (@product1954) 2017年4月4日
↑
これは失笑。お仲間が好きな漢文訓読の教育勅語、読めなくなりますよ?
>百田尚樹:中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」授業は廃止せよ(SAPIO5月号) https://t.co/kXlJYCCzUh
教育勅語が漢文書き下しじゃないか(嗤)。百田尚樹は知ってて言っているから悪質です! 中国への敵対心をむき出しにすることによって、そうした空気を作り出そうとしている。要は「中国は敵だ!」と叫ぶ代わりに「漢文授業はやめろ」になるのでしょうね。 https://t.co/sA2MC3gx8R
— 北林あずみ (@kitabayasiazumi) 2017年4月5日
▼こうした戯論が、無知無学の底辺ネトウヨからではなく、日本の著名作家から臆面もなく出て来て、個人のツイートでもなく、公刊されている雑誌に堂々と掲載されたのは、百田氏の漢文授業廃止論が今後保守に支持されるか否かとは別に、日本社会が「狂気」に突入しているのを認識すべき現象と私は考える
— 黒色中国 (@bci_) 2017年4月6日
日本会議・百田尚樹の漢文授業廃止論には、中国嫌いの他に、反知性主義というか知性や学問、論理や教養などといったものに対する反感やルサンチマンなどといった、あの界隈の人たちに観られる特徴が現れていると思う。ああいう人たちを放置したままだと、いずれ日本は野蛮で偏狭な文化破壊の国になる。
— 小路 (@komichi2) 2017年4月5日
・イデオロギーが学問を上回ってはならない
端的に言えば、百田は「中国が嫌いだ」というイデオロギーを、漢文という学問・教養の上に置けと言っているわけです。アメリカは敵だから英語を勉強するなとか、神の教えに反するから進化論は認めないとか、歴史上そんなことをやってろくなことになったことはありません。
中国やソ連では共産主義という政治イデオロギーが学問の上にきました。ルイセンコのマルクス・レーニン主義に基づいてメンデル遺伝学を否定するニセ化学がソ連を支配し、国家規模の被害を出しました。中国や朝鮮では科学よりも共産党や労働党の指導が優先され、作物は育たず、土砂崩れは起き、ソ連同様に国家規模の被害を出しました。イデオロギーが学問を上回れば、待っているのは停滞と破滅です。
世の中何が役に立つかわかりません。一見役に立たないような教養も、百田尚樹のような人間から身を守ることにきっと役立ちます。そのためにも、漢文を含め、学校でちゃんと勉強して教養を身につけましょう。
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コメント
また、漢詩をはじめとする漢文がなくなったら、日本の古典文学として扱われてきたジャンルは随分と貧相なものになります。
趣味とは言いますが、日本の古典文学や日本史資料を原典まで遡って読み解きたいなら、漢文の素養は必須でしょう。研究者などを目指すのであれば尚更そうです。
朴正煕時代に漢字をほぼほぼ廃止してしまったお隣の国が陥った有り様なんて、百田氏ならよく知っていそうなものですが。
案の定、並以上の知能の人からはツッコミというか嘲笑の嵐ですが、『日本國紀』を有難がって神棚に飾るというこの人の信者の人は「百田先生、そんなこと言って自分は漢字使ってるでしょうw」という矛盾にまず気づかないでしょうw
百田先生は中国への憧れが強い人なんですかね(嘲笑)
賛同してくれたなら敵を攻撃するまで。そうや
百田氏は「日本国記」において、日本の近代以降の歩みが最も書きたかったことだと言う。ならば、先人たちが近代化を実現するとき、漢籍を媒介としてどのように格闘したかを汲み取って欲しかった。
『源氏物語』はじめとして平安文学は漢文の要素を下敷きとしているので、漢文の授業廃止は伝統軽視以外の何物でもないですね。
しかし、朴正煕政権のハングルへの統一はもちろん伝統文化軽視の行為ですし、開発独裁政権らしい強引な政策ですが、国内で使われている文字の中で簡単なものに合わせる、というとこだけを見れば賛同できるように思えます。
もしかしたら長い目で見たとき、文化面、教養面は置いといても、経済面などのより実利的な要素ではプラスなのではないかと私は思います。
文字を覚えるのが楽という点では効率的な反面、日本語でいうと、いわば仮名文字だけが使われているようなものなので、同音異義語の問題が生じやすい印象があります(漢語由来の単語も表音文字で表現するので)。
漢字があると同音異義語の問題が生じにくいのと、文字を一目見るだけで意味が通る利便性、適格に造語しやすいなどの利点があるように感じております。
なるほど。
個人的に漢字テストが嫌いすぎて表意文字アンチになった人間なので、造語や一目見てわかる利便性は思い至らなかったですね。
百田先生の意図が理解できることだろう。
読んだけど漢文廃止を納得させるような内容はなかったぞ?
排外主義者のお仲間を喜ばせるために
教養という考え方持ってる人が排外主義に陥るとは思えないですが、この人一応小説家なんですよね
小説なんて教養無けりゃ書けないジャンルなのに
では日本共産党はどうなんだ?
ニセ化学ではなくニセ科学だぞ。
いや、それ何に対する反論?
反論になってないよ。
ちゃんと記事読んだ?