(この記事は2018/09/19の再掲です)
<ざっくり言うと>
  • 小川榮太郎、この世のものとは思えないほど差別的で下劣な文章を『新潮45』に発表


これほどまでに下劣な人間が他にいるだろうか。これまで取り上げてきたそんじょそこらの連中とはレベルが違う。小川榮太郎の事である。


『新潮45』10月号に、小川榮太郎が書いた記事が載った。この世のものとは思い難いレベルの下劣さである。

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 テレビなどで性的嗜好をカミングアウトする云々という話を見る度に苦り切って呟く。「人間ならパンツを穿いておけよ」と。
 
 性的嗜好など見せるものでも聞かせるものでもない。
 
 男と女が相対しての性交だろうが、男の後ろに男が重なっての性交だろうが、当人同士には何物にも代えられぬ快感であっても、傍目には醜悪な興奮であって、社会の公道に曝け出すものではない。性行為を見せないのが法律の有無以前の社会常識、社会的合意であるように、性的嗜好についてあからさまに語るのは、端的に言って人迷惑である
もういきなり下劣さ満載だ。LGBTを「性的指向」ではなく「性的嗜好」扱いするだけでも時代錯誤だ。男が「私は男の人が好きです」と言うのなど、男が「私は女の人が好きです」と言うのと何にも変わらない。なぜ後者は認められて、前者は否定するのか。小川の理屈なら、好きな異性の話をするのも、結婚するのも、男女の恋愛を描いた作品も、すべて「性的嗜好」を曝け出したいることになる。


それに、もしもLGBTであることを告白することがパンツを脱ぐことと同じで「パンツ履いておけよ」と言うのであれば、LGBTを不快だという小川榮太郎は異性愛者であることを告白しているのも同じで、お前こそ「パンツ履いておけよ」と言わざるを得ない。


同性愛をカミングアウトする人たちは、小川榮太郎のような人間がいるから、あえてカミングアウトするのだ。声を上げられない同性愛者たちに、「同性愛は隠さなければいけない『性的嗜好』ではない」ということを伝えるためにカミングアウトするのだ。小川の行為はそもそもなぜ同性愛者が同性愛をカミングアウトするのかという点を考えもしない、自分の「不快だ」という感情しか考えないわがままで身勝手で幼稚な人のものでしかない。


小川榮太郎の下劣さは止まらない。LGBTを性犯罪と同列扱いするのだ。
 LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(※サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。

 満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて目深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。
Huffington Post
「LGBTは不快だから、LGBTを認めるなら痴漢をする権利も認めろ」というわけだ。もうこれだけでもこの男の精神が根本から腐りきっていることの証明には十分だ。こんな理屈が通じるなら、「黒人が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ」などと言って黒人の権利を否定することも可能になる。あらゆる差別を肯定する、人間として最低の発言だ。


痴漢のような犯罪への衝動が許容されないことは当然だが、もしも精神的な疾患で犯罪衝動が抑えられないのであればカウンセリングで治療する必要がある。だが、同性愛異性愛などは衝動的に発生するものではないし、カウンセリングで治療するものでもない。異性愛者が、カウンセリングを受ければ同性愛者になれるわけではないのと同じように、同性愛者がカウンセリングを受けて異性愛者になれるようなものではない。


こんなのが「伝統的保守主義者」と言われたら、他の伝統的保守主義者たちはたまったものではないだろう。小川は「私のような伝統的保守主義者から言わせれば…」ではなく「私のような卑劣で差別的で下劣な人間から言わせれば…」と書き改めるべきだ。


しかし、小川榮太郎という男の下劣さはこれだけでは終わらない。

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>>〈雄しべ雌しべ以外に、レズしべとかゲイしべというのは無い〉
>>〈性別以前に回帰したければ来世はゾウリムシになればよく、雌雄同体に憧れるならカタツムリに生まれればいい〉



生物学的に子どもを作ることができないから人間ではない、と言っているわけだ。そんなに生物学的な性にこだわり、人間としての権利を認めることができないのなら、小川榮太郎こそ野生に帰るべきだろう。そこにはゲイやレズの権利を主張するものなどいない、小川榮太郎の理想郷が待っている。


他にも『新潮45』には八幡和郎、KAZUYA、藤岡信勝ケントギルバートなどが寄稿しているし、小川榮太郎は足立康史上念司とも共著を出している。我々は、彼らがどういう人間なのか、ちゃんと知っておく必要がある。彼らは自分の快不快のために、人間の権利を土足で踏みにじれる人間なのだ。


(しかし、こういう連中はどうしてほとんど例外なく安倍政権支持なのだ…。安倍は小川榮太郎の出版記念パーティーに出席したり、連中が出演する『虎ノ門ニュース』に出演したりしているが、もしもこんな下劣な奴らと一緒にされたくないのであれば、連中とは一線を画すべきだし、そうでなければ同列とみなされても仕方がないだろう。なんと言っても、問題の発端である杉田水脈は自民党中国ブロックの実質的な比例第1位に格付けされていたのだから)


同じ新潮社でも、「出版部文芸」は「良心に背く出版は、殺されてもせぬこと」という創業者の言葉を固定ツイートし、『新潮45』に対する批判をリツイートしている。新潮社にも良心が残っているということだろう。新潮社内で、良心がヘイトビジネスに勝利することを祈る。


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