<ざっくり言うと>
- 百田尚樹、文献資料に基づかず想像や推論で歴史を語ったもいいと思っていた!
- 百田尚樹は、説明と証明の区別がついていない。そのため、フィクションを書く時の作法と学問の作法の違いが理解できていない。
百田尚樹大先生の『日本国紀』。愛国カルトさん達に売れる一方、パクリや事実誤認を多数指摘され、池田信夫からも「かなりお粗末」「面白くない」「読むのは時間の無駄」など散々な評価を受けています。
その百田大先生、こんなこと言ってました。

井沢さんの日本史に関する論説を、呉座氏は「価値がない」と決めつけたのですか。信じられません!
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2019年3月25日
その感覚こそ悪しき歴史学の極みです。
歴史学者は文献資料に基づかない学説はすべて無価値と見なしますが、そこには想像力も類推力もありません。
歴史を残された資料だけで見るなら、浅い学問です。 https://t.co/QUmG1UGy4p
>>歴史学者は文献資料に基づかない学説は
>>すべて無価値と見なしますが、
>>そこには想像力も類推力もありません。
>>歴史を残された資料だけで見るなら、浅い学問です。
なるほど。
つまり、百田先生は、資料にないものを自分の勝手な想像や類推で埋めて、それを事実として記述していたために、事実誤認だらけのトンデモ本を書き上げてしまったわけなんですね。
歴史学だって、そりゃあ推論や想像はありますけど、それだって文献資料に基づいて基づいて論理的に推論をしてるわけです。自分に都合のいいように想像や推論するのは、そりゃあ学問でも何でもありませんわ。妄想とか願望とか呼ばれるもの。その区別がつかない人が歴史書なんて書いちゃいけません。『日本国紀』なんて名乗らず、『百田尚樹の脳内日本史』とでも名乗らないと詐欺ですね。
追記
例えば、「我々の生活が苦しいのはユダヤ人のせいだ」と「説明」することは簡単なんですが、それは「証明」じゃないわけです。ところが、説明と証明の区別がついていない人は、説明されただけで「そうだったのか!」となってしまい、ユダヤ人差別に走ってしまうわけですね。説明と証明の区別がついていないと、簡単にプロパガンダに騙されてしまうわけです。
ちゃんとした教育を受けた歴史学者であれば、説明と証明の区別がつくんですが、百田大先生は、説明と証明の区別がついていないために、自分が文献資料に基づかないまま想像、類推した「説明」にすぎないものであっても、自分の脳内でストーリーが組みあがってさえいれば、歴史的事実として執筆してしまうのでしょう。
中学高校で「証明」というものを学ぶのは、日常生活においても意義があることなんですね。説明と証明の区別は、学問では文系でも理系でも絶対的に重要なことなんですが、百田先生は学問的な思考力が全然身についていないと思われます。
作家としては想像力や類推力を駆使して面白いことを言えさえすればよくて、証明なんていらないんですが、学問としてはそれじゃ駄目なわけです。「歴史を残された資料だけで見るなら、浅い学問です」(原文ママ)と百田尚樹は言っていますが、それは彼が説明と証明の区別がついていないために、遅々として進まない証明より、楽しくて目的に沿った説明の方が価値があると思っているのでしょう。百田氏は、フィクションを書く時の作法と歴史事実を検証するときの作法が区別できていないわけですね。
トンデモさんにならないためには、説明と証明の区別は大切にしましょう。
追記2
>>「歴史学者」は自身の歴史観こそ史実であると勘違いしすぎ。「歴史学者」は自身の歴史観こそ史実であると勘違いしすぎ。
— 大川敦士 (@ookawaatsushi) 2019年3月25日
歴史とは多角的に語られるべきであって自身の歴史観を無理に押し付け、他を排除することは文化大革命に等しい。
>>歴史とは多角的に語られるべきであって
>>自身の歴史観を無理に押し付け、他を排除することは文化大革命に等しい。
これ、本人は百田氏の擁護をしていつもりみたいなんですが、「自身の歴史観こそ史実であると勘違い」「自身の歴史観を押し付け、他を排除」って、どう考えても百田大先生のやってることですよね。百田氏への返信欄って時々こういうのがありますね。
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コメント
それにどんな価値があるか研究するのが考証学です。偽書もありますから。
証拠のないものは、想像・妄想です。
昔のものを発掘するのが考古学です。
今は違いますが、昔は出土したものについて歴史と結びつけることは考古学者はやらなかったのではないでしょうか。科学的な検証はもちろんやりますが。
この説明では井沢元彦の著作を全く読んだことが無い人には意図が伝わらないと思います。
ツイッターだと長文での説明をする気にはなれないだろうから仕方ないとは思いますが。
そもそもの井沢元彦の考え方は、
「歴史に関する文献史料は勝者が書き残したものであり、敗者のことを悪く言い、自分のことを良いように書き残す傾向がある。
さらに後世に伝えたくない事実は無きものとされるいる。
勝者が残した文献史料とは大本営発表のようなものであり、歴史学者はその大本営発表を史料が有るから歴史的事実であるとして扱っており、その史料に対する向かい合い方に大いに問題がある。
勝者が意図的に書き残さなかったことや敗者の側の理屈という文献史料として残されない事情を考慮に入れなければ勝者の側の理屈をそのまま正しい歴史として認識してしまうことになる」
というものです。
私は井沢元彦氏の著作は十代の頃から好きでして大げさでなく20冊以上は読んでます。
井沢氏は元々は推理小説家なので史料に無い所を推理で補って書いていて、その推理はどうなのかな?と思う箇所も多いですが、
日本書紀の分析等は面白くて「この部分は天皇にとって都合の良いように書かれており、事実とは違うのではないか?」というような観点で日本書紀を分析しているので面白いです。
井沢氏は自身を「歴史家であるが歴史学者ではない」と書いており、
私自身の考えは呉座氏のような歴史学者は史料絶対主義であるべきですが、歴史学者ではない在野の歴史家が勝者の残した史料に記述されていない敗者の理屈を加味して論じることは必ずしも悪い事では無いと考えています。