この記事は元号が令和になった2019/04/02の再掲です。百田尚樹の無知っぷりはすごいですね。よくもまあ事実確認もせず恥ずかしげもなく口を開けるものです。
<ざっくり言うと>
- 百田尚樹、万葉集がすべて大和言葉で書かれていると思っていた。
- 新元号「令和」は、万葉集の中の「梅花(うめのはな)の歌」の序文から取られており、歌と違い序文は漢文で書かれている。
- 百田尚樹は無知なだけでなく、間違いを指摘されてもデマと妄想を重ねて自己正当化する救いがたい卑怯者。
- 百田尚樹の言うことを信じるのは人間としてあまりにも恥ずかしい。
新元号が「令和」に決まりました。出典は万葉集。国書が出典なのは史上初で、「もしも首相が安倍じゃなければ、普通に漢籍から取っていたんだろうな」とどうしても勘ぐってしまいます。伝統伝統言っていた根戸ウヨ子さんあたりには、是非とも「漢籍から取るという伝統を破壊した安倍政権許すまじ!」と怒ってほしいところですね。
それはさておき、百田尚樹、こんなこと言っていました。

万葉集はすべて大和言葉で書かれています。
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2019年4月1日
ですから、私は万葉集から取ればいいとは思っていましたが、まさかそうなるとは思っていませんでした。
「令和」、いい元号だと思います。 https://t.co/SDTuZZVXNm
>>万葉集はすべて大和言葉で書かれています。
本当にこの男は…(呆)。今回の元号をどこからとったか、ちゃんと説明を聞きも調べもしなかったんですかね?
「令和」は万葉集の「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の序文から取られています。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。思いっきり漢文ですわ。百田先生が大好きなwikipediaに既に詳細が載っていますよ。
(時は初春の令月、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前の美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏う香のように薫らせる)
百田先生、「令和」が万葉集の中の大和言葉の部分から取られているとか思ってました? 「いい元号だと思います」とか言いながら、万葉集のどこから取られたのか確認しなかったんですか?
ちなみに、岩波文庫編集部によれば、この「初春令月、氣淑風和」という部分は、『文選』という漢籍を踏まえているのだそうです。元ネタが漢籍にあるわけですから、日本人のオリジナル漢文でさえないですね。
新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』https://t.co/2VXbiq7Iw8 の補注に指摘されています。
— 岩波文庫編集部 (@iwabun1927) 2019年4月1日
「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」 pic.twitter.com/wBqpNVWN0M
いまだに百田尚樹を言論人のように扱って出演させるネット番組などがあるようですが、いい加減この男を出演させるのやめたらどうですかね? このレベルのやつに何か話させたところで、番組の質が落ちるだけでしょうに。まあ、デマを垂れ流すだけの番組だと言うのならば仕方がありませんけれど。
無知を認められない百田尚樹の哀れで惨めでみっともないクソださい恥ずかしい言い訳
えらそうに…
— 百田尚樹 (@hyakutanaoki) 2019年4月3日
大和言葉の定義は限定的なものではないい。どういう文脈で使われるかによって概念が変わる。
これまでの元号が漢籍から取られたのに対し「万葉集」から取られたという文脈から、私が大和言葉を「中国語ではなく日本語」という意味で使ったのは歴然。
マジでうっとうしい奴! https://t.co/FClyocnbD2
>>大和言葉の定義は限定的なものではない。
>>どういう文脈で使われるかによって概念が変わる。
>>これまでの元号が漢籍から取られたのに対し
>>「万葉集」から取られたという文脈から、
>>私が大和言葉を「中国語ではなく日本語」
>>という意味で使ったのは歴然。
いや、万葉集に書かれていようが、日本人が書いていようが、漢文は日本語じゃねえからな。
苦し紛れの言い訳にしてもかっこわるい…。
「大和言葉の定義は限定的なものではない」「どういう文脈で使われるかによって概念が変わる」って、いかなる文脈だろうが漢文は大和言葉でも日本語でもないからな。こいつの脳みその中だと、日本人が書けば英語も日本語になるのかな。
しかも上述の通り、「令和」の部分は漢籍に元ネタがあるので、日本人が作った文でさえない。
自分が無知だから間違っていたことを認められず、見苦しいみっともないクソダサい言い訳で恥の上塗りをする。知識量以前に人間としての品性がありませんね。
百田尚樹みたいな人間を信じるのは、人間としての脳みそと品性をゴミ箱に捨てることに等しいですね。ネトウヨ連中も、いくらなんでもこいつを信じるのは人間としてあまりに恥ずかしいのでやめた方がいいですよ。
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コメント
元号は元号法によって漢字でなければならないことになっているが、もうひと皮むけたら仮名でもよくなるかもしれない。今回はじめて出典が日本の古典ということで精いっぱいというところだろう。
高島俊男先生は「たとえば日本の周囲にある日本より小さな国が年号を作るとして、その典拠を日本の書物、たとえば古事記や万葉集に求めたとしたら、それはずいぶん見っともないことではないか自分の国の文化はないのか、と国民は怒るだろうと。」とも書いておられる。
日本の愛国保守・右の人たちはお支那さまが嫌いなのに、おかしなところで漢字に拘る。たとえば、子どもは子供と書かなければならないとか、不思議だ。子どもは日本語で漢字熟語(字音語)ではないので、仮名で書こうが混ぜ書きだろうが漢字だろうがなんでもいい。仮名は漢字からできたものではあるがこれこそ日本人がつくりだした日本語表記のための文字であり、日本が世界に誇る古典文学も仮名(この仮名という漢字がもうね。ちなみに漢字は真名)で書かれている。なぜ仮名を卑下するのか。さすがに仮名だけで書かれた文章は読みにくいし哲学的思考が不可能になるかもしれないので全部仮名で書けとは現実的ではない。ただそれは漢字の移入によって和語の発達が阻害されてしまったからでもあるのだが。