この記事は2019/04/03の再掲です。
<ざっくり言うと>
- 竹田恒泰、「外務省こそ元号を重んじろ」と発言。こいつは外国とのやり取りで元号を使うつもりなのだろうか?
- 「独立国の体裁を保つのに、先人たちが中国との国書のやりとりにどれだけ神経をとがらせてきたのか」と発言。元号を用いることが独立国の体裁にどう関係するのか。用いるとしても外交文書ではなく国内で用いる日本語文書に使うだけなので、「独立国の体裁」にも「国書のやり取り」にも何の関係もない。
- さらに「聖徳太子が泣いてる」とも発言しているが、聖徳太子の時代に元号は存在しない。
- ごちゃごちゃ言う前にちゃんと勉強してほしい。
↓聖徳太子の時代に元号が存在していないことさえ知らない程度の知識量しかない竹田恒泰。ここまで来ると可哀想でさえある。
竹田恒泰、こんなこと言っていました。
外務省はもうダメだ、、、
— 竹田恒泰 (@takenoma) 2019年4月1日
外務省こそ元号を重んじないといけないのに。
独立国の体裁を保つのに、先人たちが中国との国書のやりとりにどれだけ神経をとがらせてきたのか。聖徳太子は泣いていると思う。
和暦やめ西暦の原則使用、外務省が検討 読み替え煩雑で https://t.co/T0y1QSgqgU
わけがわからない…。
なんで外務省が元号を重んじないといけないんですかね…。こいつは、外国とのやり取りで、「では、この条約は令和3年から施行しましょう」とか言うつもりなんですかね? 外国との「国書のやり取り」で、「2021」じゃなくて「Reiwa 3」とか書くつもりなんですかね? むしろ外務省にとっては元号なんて邪魔なだけだろうに…。
また、「独立国の体裁を保つのに~」とか「聖徳太子」とか、こいつの脳みそは1500年前で止まっているんでしょうか。いまさら日本が「独立国の体裁」を整える必要があるんですかね?
大体、元号を用いると、どう独立国の体裁が整えられるんでしょう? 1500年前ならともかく、現代は外国とのやり取りには、当然の事もっぱら西暦を使うわけで、元号が使用されているのは省内での日本語文書のみなわけですよ。省内の日本語文書に元号を使うことが、「独立国の体裁」や「国書のやり取り」に関係するわけないですよね。外務省が外国語文書との混乱を避けるために西暦に統一するって、自然な流れだと思うんですけどね。
それに、「聖徳太子が泣いてる」とか言っていますが、聖徳太子のころには元号って存在していないんですけど。もしかして、竹田はそんな小学校で習うことも知らない!? (そういえば、「元号は2679年間続いている伝統」とか言ってる奴もいたなあ)
伝統だのなんだの言うなら、小学生レベルのことぐらいちゃんと勉強してほしいですね。
==追記==
やっぱりこの竹田恒泰ってやつ、相当なレベルですね。『夕刊フジ』の記事に、こんな記述がありました。

やっぱり聖徳太子の時代に元号があったと思ってるんですね。なんでこんなのが堂々とテレビに出たり歴史について語ったりしてるんでしょう。
中国とのやり取りで本当に日本の元号を使い書を当てていたのかどうか確認が取れないので、誰か詳しい方に教えていただきたいのですが(少なくとも聖徳太子が元号を用いたというのは明らかに間違ってるけど)、「そんな先人や歴史を外務省は何だと思っているのか」ということは、やっぱりこいつ、外国とのやりとりに元号を使えって言うんですかね。そんなの独立国の証でも何でもなく、ただの独りよがりにすぎないと思うんですが。
『夕刊フジ』はいくら四流タブロイド紙とはいえ、こんな奴のコメントを載せるなよ…。
↓ブログ運営のための応援の支援をお願いします
OFUSEで応援を送る




↓1日1回押さないと真の愛国者になれなくなってしまう呪いのボタン


コメント
元々、元号は中国発祥で、大化の改新からしばらくして本格化したものなので、日本由来ではありませんからね。
日本に限らず、テメーの国の伝統をほざく奴ほど伝統を理解していなかったりしますし、日本や欧米を中心に政府や権力者によって意図的に作られた伝統(夫婦同姓や初詣やキレイ好きな国民性や相撲の女性禁止や神社の神前結婚など)もありますし、そもそも伝統なんてテメーがガキの頃の価値観であって、絶対でもなければ正義でもないですからね。
時代に合わせて積極的に且つアクティブに変えてこそ伝統であって、それが効かなければ全否定されても仕方ないですね。
特に、弱者やマイノリティを積極的に尊重して擁護して救済する価値観でなければダメなのです。
ただし、私号(一部の人の間で使う号)である、別王朝(九州王朝)の号である、後の時代の捏造である、といった批判もあって、実在は不明。
聖徳太子の国書は「日出ずる国の~」の挨拶部分が隋側の書物にあるだけで、書式も内容も不明なので、「聖徳太子がこう書いた」という主張はトンデモですね。